「教育」とは
知能をつけ 意図を持って 働きかけ
望ましい姿に 変化させ
価値を 実現する活動 という意味だが
果たして
これまでの 歴史を 見ても
現代社会を 見ても
その教育に対する考え方は
生かされているのだろうか
「躾け」とは
礼儀作法を 教えることだ
「礼」とは
身だしなみを整え
「敬意を示す 心構え」と
「社会秩序」を保つための
「生活模範」のことであり
「儀」とは 「意を示す」こと をいう
教育とは
つまり 躾けの土台あって はじめて
叶えられるものなのだ
教育の前に
躾けの意義は 非常に重要だ
「価値観」とは
個人的好悪とは 無関係に
「真・善・美」に基づく
普遍的な性質
又は 重要性ということだが
あなたは きちんと
見つめ直すことを 通しながら
「価値観」に基づいて
人生を 築いているだろうか
教育は 「学力」のことではない
「学力」とは
学業成績 という意味も 含まれるが
学習によって 得られた
「能力」という 意味でもある
そして その「能力」とは
「心の作用」も含め
「物事を 成し得る力」
のことを言うのだが
果たして 現代の学力とは
「成し得る力」まで
本当に 育てているのだろうか 疑問だ
教育とは
価値を 実現する活動 のことだ
私は「真理」を教える先生と
まわりの方々に言われるが
社会的には
宗教的なイメージで とらえている人が
あまりにも多い
真理に対して
無関心であるのも 含めてだが
本来 真理とは 誠の道筋 であり
法則性により
すべての人間に 共通する
道理 のことをいうのだ
宗教は 教義であり、
すべての人間に 共通する 道理かは
個人の差異によって
必ずしも 有効とは 限らない
真理とは
すべての人に 共通する 道理だ
それは 自然の法則であり
すべての人を 生かす 道筋 をいうのだ
本来の宗教とは
自身に学ぶ という 概念の略語だったのだが
真理と 宗教の 違い、
躾けと 教育の 違い、
学問と 学力の 違いなど
違いを 学ぶことが
あなたの人生を シンプルにするのだ
現代社会は 真理よりも
「心理」に 感心が高く
能力や 人間性よりも
成績に 感心が高い
そして 価値の 実現的活動よりも
生活費と 将来の保障に 感心が高い
躾けに 始まり 教育を 取り戻そう
本来の 教育の姿を 取り戻そう
教育こそ 人類の ビジョン だ
心理に 感心を持ったとしても
躾けを知らず 学ばずでは
情緒が不安定で
心理にすら ならない
学問を重ねたとしても
「学力」そのものの意義が
具現化されていない
心理が 成立する前に
情緒、情動すら 発育、
安定していないのに
心理学が 的を得るとは 思えない
心理とは 心の 働きだ
心は 目的に添って 働く仕組みだ
心は 目的意識なしには 機能しない
心は 「物理的臓器」ではない
心は 「希望の詰まったエネルギー庫」だ
エネルギーは 光の一種で
傷つけること 病むことは できない
それは 光 だからだ
社会的に使われる 心理とは
実のところ 思考のことで
心理学ですら
思考と 感情の 違いを 分別できないだろう
ましてや
心と 感情の 働きの違いすら
解明されていない
本来 心理とは
真理の受信機を 司っている
そして 感情は
そのセキュリティーセンサーの 役割だ
宗教とは
自身の心に 学ぶ という意味だ
心理は
その感情を通して 真理を受信し
受信した 自身の宗(むね)に
そして 心に学ぶ という意味だ
かつて 国家の「教育基本法第一条」は
目的として
『教育は 人格の完成をめざし
平和的な国家 及び 社会の形成者として
「真理と正義を愛し」
個人の 価値を尊び 勤労と 責任を 重んじ
自主的精神に充ちた
「心身ともに 健康な 国民の育成」を
期して 行わなければならない』
と書いてある
真理と 正義を 愛することを 学習し
個人の 価値を尊ぶことを 学習し
勤労と 責任を 重んじ
自主的精神に充ちた
人間性の完成を 目指すこと
それが 教育だ
そして 教育とは
真理を学ぶこと そのものなのだ
教育 それは 価値を 実現する活動だ
教育は 環境によって 生かされる
そして 環境もまた
教育によって 生かされるのだ
環境教育とは
その教育と 環境が
永続性を持って 発展するための 教育だ
教育 それこそ 人類のビジョン だ
あなたが 本来の教育を 知る時
世界が 豊饒と 平和に 包まれるだろう