<span class="hpt_headertitle">創観03.自愛</span>

創観03.自愛

 

自身を愛さずして

「愛」の意味を知ることが

出来るだろうか

 

自分自身を 愛するからこそ

また誰かを 愛することが 出来るのだ

 

愛されていることが解るのは

自分自身が

誰かを 先に愛するからこそだ

 

自身の中に 愛があるからこそ

愛された時 それが愛だと解るのだ

 

「愛すること」それは 愛を知る

 

だが 自身を愛さずして

「誰か」を 愛することが 出来るだろうか

 

自身を愛さずして 誰かを愛する時

それは結果、

必ず 哀しみを生むだろう

 

自愛なくして 誰かを愛する時

愛することが「犠牲」を生む

 

愛することは

愛する者が 愛に溢れているからこそ

愛する者 と 愛される者とが

愛に消え去り

ふたりが ひとつに なるのだ

 

犠牲は 献身ではない

犠牲が愛となるのは

身命を捧げて尽くすことが

愛を目的とするからであって

尽くすことが 無駄になることではない

 

自愛の無い犠牲は

自らを生けにえと化すだろう

 

 

犠牲は

自身の苦しみの上にも 尽くすことだ

 

だが 献身は

尽くすことそのものが 悦びに溢れている

 

そして 愛することは

尽くしていることさえ 忘れることだ

 

だから 愛は 無私なりというのだ

 

受容性とは あなたがいては不可能だ

 

自愛なくして 無私は無い

 

無私は

自身の存在が 愛のみになるがゆえ

私が 消え去るのだ

 

 

水が怖い 母親がいるとする

もし目の前で 誰かが溺れている時

水が怖い「私」がいれば

助けることは困難になるだろう

だが それが我が子なら

愛する者ゆえ 気が付けば

水に飛び込んでいるだろう

 

愛が在るゆえ

そこに恐怖と私が 不在となる

 

 

自愛の無い 無私とは、

単に  自己不在という

 

犠牲が 哀しみを生むのは

自己不在が

「私」の存在意義を尽くすことによって

作ろうとするからだ

 

結果、尽くしても

見返りがなければ 存在意義を失う

 

だから 自愛の無い尽くし方は

どんなに尽くしても

自己喪失感を 更に強めるのだ

 

見返りによる、

自己不在の穴埋め とでも

いうのだろうか

 

 

鉛筆二本と お箸は似ている、

だが 近いモノではない

お箸とスプーンは似ていない、

だが 近いモノだ

似ていることと 近いことは 全く違う

 

自己不在と 無私は 一見、似ている

どちらも 自己顕示欲が

乏しく見えるからだ

だが その違いは

愛を知る者と

愛を知らない者ほど 違う

 

犠牲は

自己の存在証明書の発行に 必死だ

 

だが無私は、

ただ ただ 愛のみに溢れている

 

 

人は 愛するから 愛となるのではない

人は 愛だからこそ 愛をしてしまう

 

その違いは

人間ろくなもんではない という

性悪説か

それとも

人は そもそも善良という

性善説かの違いだ

 

自愛を知る時、

愛になるのではなく

愛だったことを知る

 

子供は皆、

母親を愛するために 生まれて来る

愛の塊だからこそ

生まれ来ることを許されるのだ

だが そのことを

母親が あまりにも知らない為

親子は 深く繋がることが出来ないのだ

 

子供は

「愛すること」を目的として

生まれて来る

だが、

「自愛無き者は 必ず 愛されることを拒む」

 

自愛無き母親は

その子供の生まれた目的、

生まれて来た意義そのものを

喪失させ、奪うだろう

 

子供は 愛が必要で

母親に愛されたいのではない

人は

「愛することで 愛を知る」からこそ

「愛されること」を

使命として求めるのだ

 

自愛を知るからこそ、愛を知る

 

愛を知るからこそ、愛することを知る

 

愛することを知るからこそ、

愛されることを知る

 

子供は そのプロセスを

深く理解するものだ

 

もう一度言おう

「自愛無き者は 必ず 愛されることを拒む」

 

自愛を知らない女性、母親は

子育てを、人生を

致命的結果にするだろう

 

 

今や学問のそのほとんどが

基礎本能は 生存だと教えている

 

人間の基礎本能が

生存だと 信じれるのは

それをマインド、つまり

思考で学ぶからだ

 

マインドは 愛を知らない

だから 基礎本能が 生存だと思えるのだ

 

 

心の生育 無くして

学問は 実態を持たない

心の活動 なくして

人生は 味わいを持たない

 

「学あてぃん むぬ 分からん」

 

これは 沖縄の方言で

 

「どんなに 学問に秀でていても

ものの道理を わきまえていなければ

人の 生きるべき道を 踏み外している」

 

という意味だ

マインドに

学問を 叩き込む、その前に

心で 体感する 自愛、

それが 教育の源であるべき姿だ

 

 

例えば、

タイタニックなどの映画で

沈没してゆく パニックの中

 

生存本能 むき出しで

自分さえ 助かれば、と

他者を 蹴落としてまでも

救命ボートに 乗り込もうとする人

 

こんな時だからこそ、

楽器を手に取り

最後の最後まで音楽を 演奏している人

 

生命に 危機が 有ろうと

愛在る者は、愛ある 在り方をする

 

「人間の 基礎本能は、愛だ」

 

だからこそ

愛を生き、愛ある者として 死す

 

愛の本能は

心が機能して 始めて真意を通すのだ

 

 

 

動物ですら

子を守るためなら 命をかけ 戦う

知性があり、理性があり、

そして 真心があり 魂がある人間が

本能を 生存とするなら

その時 人は 動物以下に なり下がる

 

人は 愛の結晶体だ

 

人の 基礎本能は 愛だ

 

人の 本性は 自愛だ

 

人の 本質は 究極なる存在だ

 

 

その結晶体が 溶け合う時

 

その本能が 触れ合う時

 

その本性が 出合う時

 

人は 人間という意味を 知る

 

 

人は 愛で在るがゆえ 愛から 生まれる

 

愛に 集い、愛に 生き、愛に還る

 

それが  人間だ

 

 

自愛、

あなたは その心地を 知る者だろうか

 

自愛 それは 究極なる 愛の種