<span class="hpt_headertitle">創観12.価値観 の 基準1</span>

創観12.価値観 の 基準1

 

「おはよう」

この言葉は 希望の一日が 始まる 合図だ

だが、私は 幼い頃

「早く 起きなさい 遅刻するでしょ」

という言葉で 毎朝 母に 起こされていた

「母さん 何で 怒ってんの?」

この言葉は 私が 母へ

30年もの間 問いかけ続けた 言葉だ

 

母は

「あんたが 早くしないから」

「あんたが 言う事を 聞かないから」

と 逆ギレを するだけだった

母は 年中 カリカリ怒っていた

 

恋愛観、結婚観、子育て観、

仕事観、人生観、そして教育観

「観」とは 真理を観察すること

という意味もあるが、

一般的には 「見解」物事に対する

見方や 考え方、意見のことをいう

つまり 恋愛や 結婚などに関する

「価値観」をいうのだが

あなたの仕事観や 人生観など

「観に対する イメージ」は

明確なものだろうか?

 

「私の人生は

○○な価値の基準のもと、

○○な人生観を生きています」

と言える人は

果たして どれくらい いるのだろうか

 

価値観は すべての人に 共通する

「行動の動機」だ

人の行動は 常に その人の価値観に 従って

行動している、

 

その人の言動も そのほとんどが

「観の影響」を受けているのだ

 

母は 常に 怒っていた

私は 穏やかな母を 観た記憶が ほとんど無い

私は 母に 質問をしただけだ

だが 母は 質問すれば する程 怒りを 強めた

 

あいさつは 互いに対する

基本的な礼儀作法であり

相手の 深浅を試みるという

深い「眼差し」が

交わされるべきものだ

 

眼差しとは 視線ではない

視線は 姿 形を見るが

眼差しは 意義や 価値を観るものだ

サルや動物のほとんどが

視線を合わせ続けると

落ち着きを 失いはじめ 威嚇し始める

たとえ それが眼差しであってもだ

 

動物の基礎本能は「生存本能」だ

だから 生きる為の基準が 「守る基準」だ

敵から身を守る という

恐れと 防衛心が 威嚇の原因なのだ

母は 私の質問に

防衛し 威嚇で 対処(保身)していた

 

私は 母親と 瞳が合ったのであって

決っしてヤンキーと

にらみ合った訳ではない

 

眼差しは 愛しさ、儚さ、尊さ、親しみなど

愛に根差されて 心地から 見つめるものだ

 

人間の 基礎本能は 生存などではなく

「愛」だ

 

人間の基礎本能は 愛だからこそ

人間なのだ

 

母の怒り、

それは 彼女の防衛心から来る

生存本能的 思考パターンの現れだ

彼女の 観、

それは 強者 生存、

「弱い人間は 生き残れない」という

考え方の基準から 生まれている

 

私は 常々 母へ言った

「人生 無事に 生き抜いた、

いったい それが何だったのか」と

 

無事とは 事無き人生という意味だ

本当に そんな人生を 心から求める人が

居るのだろうか、

無事とは

非常な状況の中 使われる 言葉であって

尊い人生の 根本的 価値観の基準として

持つべきものではない

「不幸にならない為の基準」と

「幸せになるための基準」は同じではない

夢と 希望と、信頼と 情熱に 溢れてこそ

人生であり

好奇心と 挑戦、 ユーモアと 創造、

目的意識と それに伴う 強い意志、

そして何よりも

ビジョンに 向かって 諦めないこと、

それが人生であり

それらを 愉しむことこそ

「人生の 価値観の基準」とすべきものだ

 

「不安対策」を 千個ならべるより

「信頼」を ひとつ 学ぶことの方が

遥かに 人生を 豊かにする、

 

不安対策が 人生観の基準だなんて

正気だろうか

 

母は 常々 安心 安全の為に

「公務員に なりなさい」と

私に 何十年もの間 言い続けていた

理由をたずねると 母は

「一番の 安心 安全の仕事だから」

だと答えていた

すべての人が 母の様な 動機のもと

公務員になったのならば

国は 確実に 衰退し

自滅する道を 選ぶだろう

 

公務とは、そもそも

「お国のために お役に立ちたい」

「国民のために 国を 豊かにしたい」

という 志ざしから

なるべく仕事であって、

決っして利己的 保身の為に

悪用するものではない

 

公務という 名誉ある仕事を

人生の 保険として 利用していいのだろうか

個人の 不安対策の 保障として

利用していいのだろうか

 

保障とは、

日々の 勤勉な 生活習慣の中

健体康心 維持を基礎とし

自信、つまり 自分自身を

信頼し歩むからこそ

自身への信頼が 他者や 未来への

反映として 保障となるのであって

安心の為の 公務ではない

 

「徳孤ならず 必ず隣あり」とは

徳を積む者は 孤立することなく

必ず共鳴する人に

恵まれるものである という意味で、

助け合う人、支え合う人が常に

隣人としているということである

 

人生とは 愛と信頼、

真心と 誠意、誠実さと 行動が

人生の 実質的 保障であり

まさに人間性そのものが

人生の保障であるべきだ、

 

愛着心、絆、そして 繫がる心

それらを 人生の土台として

基礎的 価値観の基準として 生きるからこそ

人は 人間と呼ばれるのだ、

 

守る基準

不幸にならない為の基準

不安対策の基準

果たして 本当に それが 人間たるものの

価値観の基準なのだろうか

 

「おはよう」は

「希望」の一日が 始まる 合図なのだ

 

 

母は 強迫観念で 生きていた

 

「人間 放って置くと

ろくなもんにしかならない」

これは 母の口癖だった

 

彼女は 不安症だ

「心配性」とは 「性」と書く

だが 「不安症」とは 「症」と書く

 

心配性は

心配りをする 性分

という意味だが

不安症とは

安堵が無い 病い(不安神経症)

という意味だ

 

彼女の 生き方の基準や

価値観の基準は 病的だ

 

自身の 産み育てた 我が子が

どうして 不安の対象となるのだろうか

自身の 産んだ 我が子が

どうして 生きがいや

希望とならないのだろうか

 

食べ物を見ては

「もったいない」という母、

その言葉を 口にするたびに 食べ

跡形も無く 消え去る ウエスト、

もったいないから 残さず食べる

という意味は

果たして この時 人生の幸福へ 有効性が

あるのだろうか

 

残さず食べるというのは、

あくまで 「腹八分目」が基本であって

身長、体重、体質、目的に 照らし合わせて

始めて 的を得るものだ

 

「高い山は 谷も深い」

それは当然の摂理だ

高い山=食べ過ぎは、

谷も深い=空腹感も強いということになる

空腹感が 強いからこそ

また 食べ過ぎも 起こるのだ

節度ある腹八分目は

空腹感も 穏やかになるのは 当然なのだ

ダイエットが失敗に 終わったり

リバウンドがあるのも

こんな基本的なことが

生活習慣に ないからだ、

 

今や 先進国の そのほとんどが

肥満対策が 深刻化している

 

自制心や 自律とは おおよそ

成長サイクルの 1 ~ 3 期(0 ~ 21歳)

期間の成長課題だ

 

食べ過ぎて 自制出来ない大人とは、

何を基準にした

どんな大人なのだろうか

 

ましては 自律などは 本来、

思春期(15歳前後)に 行動模範として

身に付けるものだ

また 自立とて ちゃんとしたプロセスがあり

「他律」「自律」「自立」

という順番があるのだ

 

先進国とは いったい 何を持って、

何を基準にした 先進なのだろうか

 

片や わずか一日で

数万人が 食べる物も無く 飢え死に

片や 自律心の欠如した 大人? が

肥満対策を 国家の対策として 政策し

先進国の食べ残し(残飯)だけでも

餓死する 数万人が

数ヶ月も食べられる量を 廃棄する

その上 もったいない と 言うから

本末転倒だ

 

母の 冷蔵庫は

不安対策と もったいない症候群で

腐った食べ物から 腐りかけた食べ物まで

いっぱいに詰まっていた

 

私は 子供の頃 冷蔵庫、

母の食べ過ぎ、母の健康、

価値の基準、それを観て 泣いた

 

泣いていたのは

私が 悲しいからではない

それが 哀しいからだ

 

自分の為に 流す涙は

子供っぽい

だが 他者や 何かのために 流す涙は

大人だ と

お釈迦様は 言った、

 

価値観の基準、

それは何を基準とした 価値観なのだろうか

 

無事に生きる為の

「不幸にならない為の 価値の基準」か

夢と 希望と、信頼と情熱に溢れた

「幸福のための 価値の基準」か