<span class="hpt_headertitle">創観07.理解</span>

創観07.理解

 

ある日の カウンセリングの事だ

 

彼女は 15歳

 

母親に 無理やり連れて来られた感じだ

 

無関心で 自己中心な母親に 振り回され

疲れ切った様子だった

 

彼女は 私の前に 腰掛けた

 

彼女の眼は 明らかに

「大人は みんな分からずや」

「あんたなんかに 私の何が 解るというの」

という眼をしていた

 

私は 尋ねた

「すねて トガった その目つき、

あなたの母に 向けるものであって

私に向けるものかい?

その目つき、八つ当たり視線というんだよ

無関心で 身勝手、自己中心な お母さんに

君は、腐っているのかい?」

と聞いた

 

彼女は ハッとした表情をしつつも

トガり気味に「別に」と答えた

 

私は続けた しかも 満面の笑みで

「あぁ  やっぱ 腐ってるねぇ

別にって トガって言う言葉、

最高に可愛い」

 

彼女は 驚いた表情の後、

笑顔を押し殺して

「可愛いって、どういう意味ですか?」

と尋ねた

 

私「言葉のままだよ」

 

彼女「あ、、、ありがとう」

と 答えた

 

彼女は その時 既に 私に好意を 持った

 

カウンセリングを 始めて

わずか 3分後の事である

 

私の カウンセリングでは

ごく普通の光景だが

これには ちゃんとした仕組みがある

 

 

どんな人間も

自分を 理解する者には、無防備になる

 

理解する者に 心を 開くのは

生命の本能だからだ

 

理解者に 心を 開かない人は

 

「目の前に 理解者が 在る」という事を

理解していない

 

全ての人間関係について 言える事なのだが

 

結果、心を 閉ざしている人は

理解力が 無い

 

 

心を閉ざしている人は

理解されないから 心を閉ざした

と 思っている

 

だが キッカケは

理解者に恵まれなかったから なのだが

結果、心を閉ざしていくうちに

自分自身までもを

無理解な 人間にしてしまう

 

これは 虐待されて 育つ子供たちの

ほとんどが 親になって 同じ様に

自分の子供に 虐待をしてしまう

その仕組みと同じだ

 

虐待されると

ダメな自分だと 自覚してしまう

「愛されるに値いする 私」ではなく

「母親を 悲しませる ダメな自分」という

自己認識だ

 

よって 自分自身が 憎い者になる

そして 気が付けば、自身への憎しみを

子供に 映して

自分の内面の暴力性を

子供に 向ける

 

いじめも 同じ仕組みだ

 

虐待も いじめも

理解者に 恵まれるだけで

その撲滅運動すら

必要が無くなるだろう

 

 

私は 幼い頃  母に こう言った、

 

「お母さんは  私を 理解 出来ないから

私への 苦言が多いんだよ」と

 

母は 常に 逆ギレしていた

 

私に 否定されたと 感じたからだ

 

だが  私は

理解者になり得ない母を 肯定はしない

 

何故なら、

子育て学上  母親に 理解されない子供ほど

惨めな思いをする者は いないからだ

 

その惨めさは その後

その子供の人生を

何十年も 縛りつける事になる

理解力の欠如、惨めさは

心の発育も含め

身体の発育不全、脳の発達障害をも

引き起こすのだから

 

母親には 子供を育てる上での

義務と 責任がある

 

その 責任の 姿勢こそ

理解者としての 親の姿だ

 

母は 私が豊かだと 理解出来ない

だから 常に 躾けと称して

怒りを 私に ぶつけていた

 

 

私は 父も含め

母の笑った顔を 観て育った 記憶が

ほとんど無い

 

私は 豊かな 人間だと 私を理解していた

だから 父 母に

怒りをぶつけられて育った子供ではなく

 

「怒りを 受け止める者」として

自分を理解していた

 

ぶつけられてしまう 受身の 惨めさか、

 

それとも  誠意を持って

積極的に 受け止める 理解者か、

 

私は そのどちらが自分自身に有益か

それを理解していた

 

 

カウンセリングの後半、15歳の彼女は

まるで 何でも話せる 旧友の様に

私と笑いながら 話していた

 

そして

「何でも楽しく 精一杯 頑張っていきます」

と満面の笑みで 応えてくれた

 

彼女は 私を 理解者だと  理解していた

 

つまり 彼女は 理解力のある 存在だ

 

カウンセリングで 私のした事

それは 彼女自身に

理解力があり 生きる力がある

という事に 気付かせたことくらいだ

 

彼女は 自身の 理解力で

自身を 救ったのだ

 

彼女は 彼女自身の 理解者となり始めた

 

カウンセリングの締めくくり

私は

「理解者として 母親を 見つめてごらん」

と助言した

 

しばらく間を置いて 彼女は

「腐ることなく 楽しみながら

母と関わっていきます」

と笑顔で応えた

 

彼女は 15歳にして 既に 大人だ

 

理解者とは

受け身の精神には 決して 生まれない

 

理解とは

生きることを 活きる者に

そして 積極的な 精神にしか 機能しない

 

 

生命は 理解する者に 心を開く、

その本能は  積極性によって

スイッチが 入るのだ

 

 

かつて 二十数年前に 書いた 私の詩集に

こんな 文がある

 

「謙虚さとは 積極的 柔和である」と

 

謙虚さとは

決して 控えめという意味ではない

 

そして 受け身という事でもない

 

謙虚さとは

いかなる時にも 「学ぶ姿勢」に溢れ

前向きに 現実と 向き合い

あくまでも

「感謝を 積極的な態度で 示す 生き方」

を言うのだ

 

 

理解力も 積極性に置いて 機能するように

 

謙虚さも 積極性に置いて 理解できる

 

理解力の 欠けた者の 謙虚さとは

単なる へり下りでしかない

 

へり下りとは

謙遜であり 謙虚さではない

謙遜は 自分自身を 卑下して

相手を立てることだ

 

だが 謙虚さとは

相手を敬い、称するからこそ

尊んで礼を尽くす 姿勢なのだ

 

 

そして 積極的 柔和とは

「生命は 決して 別々ではない」という

愛着と 絆、繋がりの中で

前向きに 生きる姿勢のことだ

 

今でこそ 優柔不断といえば

迷ってばかりで

意思のはっきりしない態度のこととして

表現することが多いが

 

「優柔不断」とは 由来を直訳すると

常に 優しく 全てを柔軟に 理解し

いかなる時も 決して その姿勢を 絶やさない

 

絶え間ない 不断なる「一念」

 

その境地に 達するもの、

それが 優柔不断なる者と 呼ばれたのだ

 

 

「柔和」とは その一念なる信念に

和気を持って 親和、和解、

そして調和することを言う

 

 

理解者とは

感謝を胸の内に秘め 謙虚さを 知る

 

理解とは 究極の 悟りであり 差とりだ

 

 

私の 母は 私が見つめると

ジロジロ見るなと 怒っていた

 

動物は 目を合わせ続けると 威嚇を始める

その対象が 恐怖心に 火を付けるからだ

「視線」は 理解する力が 機能していない

だから 防衛本能が 働いてしまう

 

母は 私の見つめる意味が 理解できない、

だから 私に 腹を立てるのだ

 

視線は 浅い、だが 「眼差し」は 深い

 

眼差しは 理解者の包容だからだ

 

包容とは

人を 寛大に 受け入れることをいう

 

母は 私を理解していない

だから 私の眼差しを 視線として 観るのだ

 

「私は 眼差しを持って

貴方を 理解しています」

 

その言葉を 私は 母へ

数えきれないほど 30年間も伝えて続けた

 

だが 彼女は 防衛心を 解こうとしなかった

 

 

15歳の彼女は わずか3分で

理解者である 私を 理解した

 

そして 自身をも 理解者へと 深化させた

 

 

母と 彼女の 違い、それは何なのだろうか

 

理解力が機能しない人と

機能する人の 違いは 何なのだろうか

 

覚えていて欲しい、

 

理解力は 「学ぶ姿勢」が 在る者にしか

機能しないことを

 

そして 積極的に 生きようと

決意する者にしか 理解出来ないことを

 

 

さて あなたは「理解者」ですか?