<span class="hpt_headertitle">創観05.国家ビジョン</span>

創観05.国家ビジョン

 

日本という国は

明確な 国家ビジョンというものを

持っているのだろうか

 

私から見れば、

せいぜい「 アメリカの様に なりたい」

みたいな感じにしか 見えない

 

アメリカン ドリームの夢物語を

バブル経済に見立てて

架空経済を 狂った信者の様に

今だに 信じているのだろうか

 

自給率30%くらいの国家で

どうして飯が食えてるのだろうか

東京に至っては

自給率なんと 1%だ

1%自給率圏に暮す 政府が

Tppに 何故 賛成出来るのだろうか

おまけに 飯は作れないが

所得は 全国平均の 2倍だ

これが 架空経済じゃなくて何なのだろうか

 

年金資産は

本来、800兆円あるべきだが

事実上  50兆円しかない、

どこへ 逝ったのだろうか

 

インフラ整備にしても 老朽化が進み

必要な整備だけでも

既に 1千兆円が必要だ

 

社会保障も国の使い込みで

資産は ほとんどゼロに近い

それでも これでもかと言わんばかりに

使い込みを隠す様に

「一体改革」という名の下に

税金 を引き上げる

国債を出し続けて20年

これでもか、それでもかと

子供たちに そのつけをまわす

 

それでも 国民は 国を信じ、

保障を信じているのだろうか

 

高齢少子化、

その未来に すべてを 背負わせることが

事実上、可能なのだろうか

 

結局、私たちが 払うか

子供たちが 払うかだ

 

これから国民は 生きる意味を 確実に

これまでの 後始末に

傾けなければ ならなくなるのか

 

これまででさえ

食べる為 と エネルギーを買う為に

人生のすべてを 国に差し出して来た、

その上、これからは

借金も加わることになる

 

我々は 結果、

お金の為に 働き、

お金の為だけに 生きることを

余儀なくされるだろう

 

このままでは

国の破綻か、戦争からのやり直しか

何らかの 大変革が無い限り、

この国は 存続可能なのだろうか

 

 

国家ビジョンとは、

後始末的な 不安対策であってはならない

 

「保険制度の 充実」

それが 一流国家の証し

と言う者もいるようだが

正気を 疑った方がいい

 

保険とは 本来 人生における

どうしようもない

イレギュラーに対して 備えるものであって

日頃から 精を出して取り組むものではない

 

人生「不幸に ならない為に 造る

価値の基準」と

 

「幸せを創るための 価値の基準」は

決して同じではない

 

不幸を避ける為に 費やす人生、

それが本当に 「生きる」という事だろうか

 

何かから 身を守る、それが動機なら

それは「 生活」ではなく

単なる「生息」だ

 

人間たるものとは

防衛心の暁に、というものなのだろうか

 

 

銀行は 質屋か 投資家か

質屋は いい それは質屋だから

それは 商品 担保を 基準に

金を貸す システムなのだから

 

だが 銀行は 本来 ビジョンを基準に

投資すべき企業であるべきだ

 

銀行が 担保に すがるなら 、

担保依存症たる体質を 恥ずべきだ

銀行にとって 担保は 保険だ

保険の利かない仕事は 決してしない

銀行はその時点で すでに

ビジョンや投資と 無縁だ、

 

銀行は、「金行」とは言わない

あくまでも 銀だ

その深い意味を 世界は 知るべきだ

お金は 人生の「主人公」でない

それは あくまでも 縁や 宴、そして

園や 艶の下の力もちであるべきものだ

魅力的な 保険という 言葉は

病んだ世界だけに 有効な 魅力?

いや 魔力でしか無い

 

 

また 健康に対する 「保健」なら

話しは 別の次元だ

 

国民健康保険などの 保険は

やはりあくまでも保険だ

だが 「保健」は 限りなく

「保険」の必要性を 削減してゆくだろう

 

何故なら、

保険は

病いに対処する為の システムだが

保健は

健康を 保つためにある システムだからだ

 

保険は 病気が対象だが、

保健は 健康が対象なのだ

 

一般論として、

戦争と平和は 対象的なものとして

扱われ勝ちだが

戦争との対象的なのは

平和などではなく、愛だ

戦争とは 愛と対象的なものであって、

平和ではない

 

平和を対象に置くがゆえ、

平和の為に戦う

 

平和を求め、戦う?

戦うことで、平和を造るのだろうか

 

平和とは

愛を生きるがゆえ、その結果として

自然に 生まれるものだ

 

不安にしても然り

「不安」の対象は 「安心」と 答える

しかし 安心を 得るために 悪戦苦闘する

だが 不安の対象は 安心などではなく

「信頼」だ

 

信頼が そこにあれば

不安は その居場所を失う

信頼とは何か、

それを 学ぶだけで

安心は 自然に 生まれる

 

平和の為といって戦う様に 病気と戦う

戦うがゆえ 薬剤で病気を攻撃する

攻撃という前提で 薬剤を使うがゆえ

副作用というゲリラ戦が 始まる

副作用と言えば 聞こえはいいが

事実上、副作用とは その実態から

新たな 病気の始まりでしかない

 

戦争を無くす為、という 考え方と

平和を 築くため、という考え方は

まったく別の問題だ

 

保険 と 保健 では

まったく別の問題であり

そもそもの システムの目的が 違う

 

日本は 今や 学生の 約半数が

生活習慣病の 予備群だ

 

十代で 生活習慣病の予備群とは

どれだけ未来に 暗雲低迷を起こすのか

素人でも 予測出来るのではないだろうか

そして 年金制度に同じく、

1人あたりの負担する 医療費は

採算割れしてゆくのも 時間の問題だ

このままの 保険制度、保険事業を 続ければ

事実上、医療保険制度の 破綻か、

もしくは 国民生活の破綻かを

間逃れないだろう

 

保健教育、保健事業は

それらすべての問題を 回避する、

 

この国の 医療費の10%を

保健事業に 投資するなら

その10%を 保健教育に 投資するなら

この国の未来は

医療費を70%も 削減していることだろう

 

私が 中学生の頃の話しだ

保健の授業中、 先生に質問した

 

「先生、人体の仕組みそのものの

話しをするのは いいけれど

そもそも保健とは 何ですか?」

 

先生は あわてて

教科書の中に 答えを探していた、

 

この質問は

私は 高校や 大学でもしている

だが 人体と健康に関すること 以外の解答を

して頂いたことは無い

 

かつて エンリッチ  3号(P18)の

「我らが地球計画書」にも書いたが、

医者には

上医、中医、下医、というものがある

下医は 病気を 医し

そして 中医は 人を 医す

だが 上医は 国を医すものだ

 

そして保健とは

上医として診る眼が 必要だ

 

もしも この国の 国民ひとり ひとりが

健康を 保つ知恵 と 行動力を

身に付けているのなら

保健の 本当の意味を 理解しているのなら

この国の未来は 別の 経済構造と

豊饒が 存在していることだろう

 

 

私は 日頃、

医療関係者や 健康関連事業者と

対話することが多い

だが そのほとんどが やはり

健康と 病気を 関連づけて 捉えている

 

本来、健康とは

「 保健教育」 と 「ビジョン」によって

育成されるべきものだ

 

そして 保健教育は

情緒、情動を 基礎とした

心の育成を土台とすべきだ

 

何故なら、

心の 健康なくして

人生の健全化は ありえないからだ

 

そして何よりも

心の栄養素は 希望、つまり

ビジョンなのだ

 

はっきり言っておこう、

頭(マインド)は

愛が 何であるのかを 理解することは

出来ない

 

そして 心(ハート)は

お金が 何であるのかを 理解することは

出来ない

 

そして 人生には

道理というものがある

 

お金も 愛も

人生に 欠かすことは出来ない

 

だが  ものの道理には

秩序というものがある

 

「お金が 愛を 生むのか」

 

「愛が お金を 生むのか」

 

その すべての 生みの親は、何なのか

 

心を 取り戻しなさい

 

心から すべてが 生まれるのだから

 

 

国は 国民に対して

明確な「国家ビジョン」を示すべきだ

 

そして 国民も また 国に

国家ビジョンの明確な説明を 求めるべきだ

 

もしも この国に

明確な 国家ビジョンが 無いのなら

 

「国家ビジョン が ありません」と 国は

国民に 誠実に 助けを 求めるべきだ

 

 

今、国民は

国を 恨む時に 来ているのでは無い

愛する時に 来ているのだ

 

国は 国民を 恐れる時ではない

国は 国民に 心を 開く時に 来ているのだ

 

 

さて ここまで来て、

 

あなた と 国家 は 別の存在なのだろうか

 

いや 国家とは あなた の 集まりだ

 

あなたの 心が 開く時、

 

あなたが 強い ビジョンを 持つ時、

 

この国は

輝かしい「国家ビジョン」を 目指し

駆け出していることだろう