<span class="hpt_headertitle">創観02.命どぅ宝</span>

創観02.命どぅ宝

 

法則は 法則だ

それは 仕組みだ

だから 人の考え方で

変えられるものではない

 

予言として 聞こえるかもしれないが

前もって これから 私の母が

どうなる可能性があるのかを

話しておこう

 

私の母は

残念ながら 長生きする可能性が低い

そして その理由は

脳に関わる 病気によってだ

 

それ は 確実に

法則 や 仕組みに 逆流する

考え方 を 強くしているからだ

 

病気も 生死も そして 人生も

その人の考え方 や 心の状態が

反映していく 仕組みを教えよう

 

どんな病気も 必ず 因果がある

脳の病は

脳の病気になる 理由があり

心臓の 病は

心臓の病になる 理由がある

 

たまたま その病気になる のではない

 

腎臓は 腎臓が 病む理由

肝臓は 肝臓が 病む理由 が

必ず あるのだ

 

 

私の母は

とても「不安症」だった

これは 「心配症」とは

まったく 意味が 違う

 

不安症 とは「症」と 書くが

心配性 とは「性」と書く

 

心配とは

心配りをする 性分という意味だが

不安症とは

不安神経症という 病だ

 

不安とは

安心が 無い という病気だ

 

そして

不安とは

生命に対する 不信感であり

人生に対する 疑心暗鬼 だ

つまり人生を そして 生命を

疑う心 恐れる心 という意味だ

 

不安症は

積極的に 疑いに 力を込めている

 

不安症は

前向きに 恐怖心に 汗を流し

いい汗を かいた と 安心する

 

不安対策が 安心だ なんて

正気だろうか

 

不安症は

プラス思考に なろうと努力する

そもそも

不安であること そのものが

マイナス思考なのにだ

 

それは まるで

部屋の明かりを 自分で消しといて

暗くて 見えないから

歩き辛く不安だ

だから 寝室から トイレまで

手すりをつけて 安心する 様なものだ

 

暗闇に 対策を打つより

明かりをつけるだけで

手すりの 必要性は 消滅する

 

どんな手すりが 良いかの問題ではない

手すりの「必要性」を考えていること が

問題なのだ

明かりを つけるだけで

手すりの「必要性」すら無いことを

学ぶだけの 問題だ

 

必要性は 不必要だ

 

必要性に

常に迫られて 生きている人は

心が 常に 貧しい

 

心の貧しさは 不安症の病原だ

 

 

私の母は 案じていたとおり

60余り の 若さで 死んだ

しかも 脳の 病でだ

 

彼女は 私の将来への 不安から

とても 厳しい躾 を していた

 

 

ひざまづき で 食事

ひざまづき で 勉強 を させられた

 

私の 足の くるぶしには

大きい ひざまづき タコ が

坊さん に 負けないくらい に

出きていた

 

姿勢を 崩すと

ハンガー や ものさしで叩かれた

 

私は 家畜ではない

 

犬や猫のペットでさえ

暴力では 躾けられない

 

躾の 基本は 愛情 共感

そして「見本」となることだ

 

 

教育の 原点は 認め合うこと

つまり 承認だ

 

承認は

教育心理学では 基本中の基本だ

 

教育のエッセンスは 誉め合うこと

称え合うこと

そして

その称讃を 分かち合うことだ

 

感受性は

承認感覚の安定に 比例することを

覚えていてほしい

 

感受性が 鈍ければ

感動の心も 働かない

 

感動が無い 人生には

けっして 希望は 育たない

 

子供は 希望の大きさに 比例して

人間性も大きくすることを

覚えていてほしい

 

子供とは 子は常に

供なうものと 共に という由来から

子供と書くのだ

 

7歳までは

承認感覚と情緒を育てる

大切な時期だ

 

だから 特に それまでは

親も 供に 見本となって関わり

躾けるべきだ

 

そして 8歳からは「供」ではなく

「共」として子共と書く方がいい

 

「供に」というのは

常に 支え 寄り添い

力を 貸せつつ 見守ることを差す

 

そして「共に」というのは

本人の力で チャレンジさせ

主に 見守ること が

中心になってゆくことを差す

 

母の躾け 教育は

称讃し合い 感動を与え

希望を 育てるものではなく

 

不安を 煽り 脅し

そして 暴力で 服従させるものだった

 

彼女は スパルタ星人だ

そして 不安教 という名の 宗教家だ

 

宗教家は 信じているもの 以外は認めない

信じているもの以外は 理解できないのだ

 

人は 信じたもので 創られる

あらゆる チャレンジ や 体験

そして 経験として 検証した結果

選択する 教義なら まだしも

 

あれこれも 知らないうちに

ある特定の 教義だけを信じるのは

いかがなものだろうか

 

アラビアで

ヒンドゥー教を選択し 信じることも

とても 難しいだろう

そしてインドで

イスラム教を選択し 信じることも

とても 難しいだろう

 

それは

教義の中身の問題ではなく

 

生まれた場所の 問題だ

 

自分が 信じているものが

場所の問題だと

気づいて いるのだろうか

 

 

 

母は 信じているものを

変えられなかった

 

私は 30年以上も

母に 提案し続けた

 

母は 勉強しなきゃ バカになる

 

良い大学に 行かなければ

人生は良くならないと

強く信じていた

 

そして 特に

子育ては 感情的だった

 

「ちゃんと 躾けなければ

人間 ろくなものには ならない」

 

「ちゃんと 躾けなければ

人間は 何を するか 分からない」

 

これは 母の 根本的な 躾けの 必要性論

つまり 強迫観念だ

 

人間は 躾けなければ

本当に 愛も 優しさも

持ち合わせて いないのだろうか

 

母は 完全に「人間不信」だ

 

彼女の「考え方の基本構造」は

子供への 疑いだ

 

人間は 愛から生まれ

愛に 集う

そして 優しさが好きで

優しさこそ 子供の本質だ

 

生まれつき

出来損ないの 子供なんて

存在しない

 

母は 愛が 人間の 基礎本能だと

信じることが 出来なかった

 

母の 基礎本能は 強者生存だ

 

彼女は 脳の病で 死んだ

 

基本的に 考え方が 法則に 反するから

考えをする場所 つまり 脳が病んでいく

 

 

私は 母が 死に逝く 2年前

30年間 続けて来た

彼女への「提案」を

「警告」へ変えた

 

だが 母は 考え方 つまり

信じているものを 変えられなかった

 

彼女は 万全な

老後対策をし 安心していた

 

だが 彼女に 老後は 来なかった

 

彼女が 死に逝く 半年前

 

私は「命どぅ宝」

生きているだけで

人は まず 無条件に 感謝 だと

母に 言い続けた

 

だから 脳の手術をして

言語障害になろうと 生きていてほしいと

切望し 言い続けた

 

たとえ 身体に 障害が 残ろうと

たとえ 下の世話を 介護されようと

 

 

ただ ただ 生きること への希望を

捨てないでほしいと 伝え続けた

 

彼女は

惨めな介護は受け入れられないと

逆切れした

 

生かされている命に

惨めな 姿なんて あるのだろうか

 

惨めな 命 という考え方は

やはり 病んでいる

 

 

彼女は

「惨めに 生きるくらいなら

死んだ方がましだ」

と怒鳴っていた

 

 

彼女は 命の尊さ 重さより

彼女の プライドが大事だ と

言ったことになる

 

命より 尊いもの

 

そんなものが 存在するのだろうか

 

プライドも 信念も

絶対に 命の上に 置いてはいけない

 

そこが ここ 沖縄の 信仰の 源

「命どぅ宝」だ

 

これを 世界が 理解する時

必ず 世界は 平和に 包まれる

 

 

母は 介護を受ける生き様は

惨めだ と言った

 

介護は 誰もが知るべき

献身愛への学びの神聖な場 と 機会だ

 

介護は 惨めだ という 彼女は

やはり 病んでいる

 

 

私は 子供の頃

障害を持ち 介護を受けたことが ある

 

そこに あったのは

 

惨めさの 向こう側にある

献身愛への 無情の感謝だった

 

真の感謝 とは 無情に

そして 静かに 起こること を知った

 

愛の 贈り手は

愛の 承け手 あってこそ 生かされる

 

 

そして

愛の 承け手 も また

愛の 贈り手 あってこそ 生かされる

 

 

そして 互い 生かされ合う

それが 命の 素晴らしさだ

 

介護は 命の 美しさの側面を

見させてくれる

介護は けして 惨めさ などではない

 

 

母は 惨めさを恐れていた

 

彼女は その恐れが引き金となって

脳の病に 倒れた

 

不安症は 心配性ではない

 

不安は 人生への侮辱だ

 

 

神様が授けた 尊い命 そして

 

親が授けた 尊い身体

 

人生は 与えられた 尊い贈りものだ

 

 

あなたが 生かされていることを 生かす時

 

あなたは 命の稀蹟 に 気づくだろう